社長コラム 2017.08.31 旅は道連れ世は情け!
何かに迷ったり立ち止まってしまった時、前に(時に斜めに)進むためのキーワードは『旅と本と友』だなぁ、と思います。
なかでも『旅』はそのエネルギーやインパクトは大きいですね。(費やす時間とお金も大きいですが)
若い頃の旅の想い出話に少しお付き合いください。
80年代前半ころの話です。
20歳のころに旅したアメリカ。
グランドキャニオンなど西海岸の自然。
NYのライブハウスの演奏のスゴさとスエた匂い。
若気の至りで観た映画(当時日本ではアレがナニでしたので)。
エンパイアステートビルは今のように並ばなくてもすんなり上れました。
80年代はじめ頃のアメリカは、あまり調子が良くなかったように感じました。日本が加速している時だったからそう感じたのかもしれません。
22歳、就職もせず(できず)留年を決め込み3ヶ月ほどぶらついたインドやネパールの旅。
男女同じドミトリー(相部屋)はまあ普通。
壁と屋根しかない部屋、つまり床は土で寝袋の台だけのコテージスタイルの宿はトイレさえもない。部屋にないのではなく宿にない。用は水桶携えて裏の茂みでたすシステム(本当です)。
土の床の部屋(トイレは裏の草むら)
インターネット以前、そのころは宿の予約はせず(できず)、ゴーショーし(直接訪ね)、
『Do you have a room tonight?』
かなりドキドキものです。
インド、カルカッタのサダルストリート辺りの安宿みたいなところは今でもそうでしょうね。
【サダルストリートのドミトリーで出会った人たち】
・日本から送ったバイクでツーリング中の大学生
(→当時の日本製の大型バイクはもう注目の的、ヒーローになってました)
・アルミ製の弁当箱(ドカベン型)に怪しいお薬の類を沢山入れている女性(ジャパニ)
・バスタオル一枚でウロウロする綺麗な女性(ブラジル)
・安売春宿で身ぐるみはがされた京都の大学生(かと思えば、マザーテレサの家でボランティアをしていた)
・当時大ヒット中のマイケルジャクソンなりきりの国籍不明の人(毎晩踊ってました)
・宿の前には、『阿佐ヶ谷、世田谷、ブッタガヤ』と声をかけてくるポン引き
美味しかったり、そうでもなく口から出しそうになったりも。幸いにも現地の人々との出会いのほとんどはHappyなものでした。
(ちょいちょい騙されたりボラれたりもしましたが)
旅先での出会い
旅、とくに見知らぬ国を大雑把な計画だけでいく自由な旅は、行く前から相当ビビります。
その期待に応えていただくかのごとく、毎日のように色んなことが発生します。
リクシャやタクシーでのトラブルは定番です。
金額で揉めるはしょっちゅう、時には見知らぬところへ連れて行かれることも。
コンタクトレンズからバイキンが入ったのか、目が腫れ上がったことがあり病院へかけこみました。
出された色とりどりのカラフルな山盛りの薬、今思えば多分抗生物質だろうと想像しますがいかにも怪しく、さらにいきなり注射された際には『もうおしまいだ』と観念。幸い痛みと腫れは引きましたが。
国際線でも席は早い者がち、つまり自由席で、乗り換えのためたどり着いたダッカの空港(バングラデシュ)。
フライトキャンセルで三日間も滞在しました。(週2便しか飛んでなかった?)
幸い空港泊ではなく、市内の最高級ホテルに連れていかれました(軍隊?警察に)。
一室にたくさん押し込まれ、『パスポートを預ける!そしてホテルからは外出禁止!』と言われたのですが、当然こっそり外をウロウロ。
ダッカのシェラトンで軟禁
街中がすごく異様な雰囲気だったのは、実はその時期は戒厳令下だったと、あとで知りました。かなりマヌケな話です。
やっとのことで乗り継いで戻ったバンコク(タイ)の楽宮ホテルは南京虫だらけで大変な目にあいました。
『もう日本に帰りたい!一日も早く』という心細い気持ちと
『もっと続けたい、知らないところへ行きたい』というワクワクの想いが常に交差します。
この『逃げたくなるような心細さと、いつまでも感じていたいワクワク感』について、近年あることに気づきました。
これは『経営の感じ』にそっくりです。
まだまだ色んな旅をしたいなぁと強く思うこの頃です。
なかでも『旅』はそのエネルギーやインパクトは大きいですね。(費やす時間とお金も大きいですが)
若い頃の旅の想い出話に少しお付き合いください。
80年代前半ころの話です。
20歳のころに旅したアメリカ。
グランドキャニオンなど西海岸の自然。
NYのライブハウスの演奏のスゴさとスエた匂い。
若気の至りで観た映画(当時日本ではアレがナニでしたので)。
エンパイアステートビルは今のように並ばなくてもすんなり上れました。
80年代はじめ頃のアメリカは、あまり調子が良くなかったように感じました。日本が加速している時だったからそう感じたのかもしれません。
22歳、就職もせず(できず)留年を決め込み3ヶ月ほどぶらついたインドやネパールの旅。
男女同じドミトリー(相部屋)はまあ普通。
壁と屋根しかない部屋、つまり床は土で寝袋の台だけのコテージスタイルの宿はトイレさえもない。部屋にないのではなく宿にない。用は水桶携えて裏の茂みでたすシステム(本当です)。
土の床の部屋(トイレは裏の草むら)
インターネット以前、そのころは宿の予約はせず(できず)、ゴーショーし(直接訪ね)、
『Do you have a room tonight?』
かなりドキドキものです。
インド、カルカッタのサダルストリート辺りの安宿みたいなところは今でもそうでしょうね。
【サダルストリートのドミトリーで出会った人たち】
・日本から送ったバイクでツーリング中の大学生
(→当時の日本製の大型バイクはもう注目の的、ヒーローになってました)
・アルミ製の弁当箱(ドカベン型)に怪しいお薬の類を沢山入れている女性(ジャパニ)
・バスタオル一枚でウロウロする綺麗な女性(ブラジル)
・安売春宿で身ぐるみはがされた京都の大学生(かと思えば、マザーテレサの家でボランティアをしていた)
・当時大ヒット中のマイケルジャクソンなりきりの国籍不明の人(毎晩踊ってました)
・宿の前には、『阿佐ヶ谷、世田谷、ブッタガヤ』と声をかけてくるポン引き
サダルストリートのドミトリー
美味しかったり、そうでもなく口から出しそうになったりも。幸いにも現地の人々との出会いのほとんどはHappyなものでした。
(ちょいちょい騙されたりボラれたりもしましたが)
旅先での出会い
旅、とくに見知らぬ国を大雑把な計画だけでいく自由な旅は、行く前から相当ビビります。
その期待に応えていただくかのごとく、毎日のように色んなことが発生します。
リクシャやタクシーでのトラブルは定番です。
金額で揉めるはしょっちゅう、時には見知らぬところへ連れて行かれることも。
コンタクトレンズからバイキンが入ったのか、目が腫れ上がったことがあり病院へかけこみました。
出された色とりどりのカラフルな山盛りの薬、今思えば多分抗生物質だろうと想像しますがいかにも怪しく、さらにいきなり注射された際には『もうおしまいだ』と観念。幸い痛みと腫れは引きましたが。
国際線でも席は早い者がち、つまり自由席で、乗り換えのためたどり着いたダッカの空港(バングラデシュ)。
フライトキャンセルで三日間も滞在しました。(週2便しか飛んでなかった?)
幸い空港泊ではなく、市内の最高級ホテルに連れていかれました(軍隊?警察に)。
一室にたくさん押し込まれ、『パスポートを預ける!そしてホテルからは外出禁止!』と言われたのですが、当然こっそり外をウロウロ。
ダッカのシェラトンで軟禁
街中がすごく異様な雰囲気だったのは、実はその時期は戒厳令下だったと、あとで知りました。かなりマヌケな話です。
やっとのことで乗り継いで戻ったバンコク(タイ)の楽宮ホテルは南京虫だらけで大変な目にあいました。
『もう日本に帰りたい!一日も早く』という心細い気持ちと
『もっと続けたい、知らないところへ行きたい』というワクワクの想いが常に交差します。
この『逃げたくなるような心細さと、いつまでも感じていたいワクワク感』について、近年あることに気づきました。
これは『経営の感じ』にそっくりです。
まだまだ色んな旅をしたいなぁと強く思うこの頃です。